昭和45年03月19日 朝の御理解



 御理解 第84節
 「おごりがましいこをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」

 お互い繁盛のおかげを頂きたい。本当の繁盛ではないぞと仰るような繁盛では、つまらんわけですね。いかにも繁盛のように見えておりましても、何か幸運に恵まれたと、いわゆる運が出たといったようなことで一辺に繁盛しておるようにあってもです、それは繁盛ではないと。繁盛ではない繁盛である。本当の繁盛と言うのは、細い道でも次第に踏み広げて通るのが繁盛じゃとこう言われる。
それはどういうようなことだろうかと思います。長年たとえばここで、ま、信心を皆さんけいこなさるようになって、椛目の時代からおかげを頂いておる方達は、も、やはり二十年になるわけです。取り分け、さあ、金光様の信心を頂いておるから、商売がじゃんじゃん繁盛しておると、と言うような目立つようなおかげを受けておる人はまだないようです。けれども、日々、信心の有り難さ、神様の働きの間違いなさ、そういうようなものを積み上げて行っておる。
 それが、信心が続いておると。私はね、あの、そういうおかげの基礎と言うものが、そのできるということだとだと思うですね。そういうことが、ま、たとえばなら、もう二十年間も信心を続けておるけれどもと言うのは、そういう信心のいわば道が付いて来よる。いわゆるおかげの頂けれる道に、段々近づいて行きよると。これはあの少しづつ貯め上げていくというような意味じゃないと思うですね。
 そういう、いよいよ神様の間違いなさが分っていくという信心。いわゆる信心が、段々なるほど初めの間は小さい。小さいというがま、難儀な問題から入信させて頂いて、それから段々その信心が大きな信心になって行きよると。たとえば願う、祈りの内容といったようなものも、いよいよ本気でたとえば世のお役に立ちたいということのような信心がです、でけてくる。ね、そういう私は信心が、あのでけて行っておると。
 例えば信心しておってどうしてこの様な事がでけるであろうかと言った様なもではなくて、これはまだ信心が足りんからだと、信心を進めて行っておる。そういう信心が私は、あの細うても長う続いておるということだと思うです。ね、ですからあのそういう信心が続いておる限りですね、信心が大きな信心に進んで行っており、または、信心しておってどうしてこのようなことがと言うのでなくて。
 そういうような場合にいつでも信心が足りぬからじゃと言ったような思い方の信心が、続けられておればです、も、それは絶対おかげの受けられる信心。そこにはですね、何て言うですかね、それはちょうど、私の修行時代から椛目時代が生まれて、椛目時代に、ま、椛目にいよいよあっちで、お取次ぎさせて頂くように、ならせて頂いて、もう一年後には、御大祭が、もちろん狭かったですけれども、二階に作らなければならないほどしに、なっておったんですからね。
 だから結局それまでの信心なんですよね。ですから私、ここんところはあの次第次第に、ね、去年は千円貯まった、今年は二千円貯まったと言ったようなものでなくてね、信心があのそういういわゆる踏み広げて通るような信心になって行っておると言うことです。いうならば、段々大きな信心に育って行っておると言うことです。または、どのようなことがあってもですね。
 道に草を生やすようなことをすな、というのは、信心が続けられると言うこと。の、続けていくうちに、様々なことがありましょうけれども、その困ったことでもですね、これまだ私の信心が足りぬからだというような頂き方。私は、なら合楽でも、おかげを受けてないというても、やっぱりおかげを受けておる、それこそ水ぶくれじゃなかろうかというごと一辺にパーっと膨れたおかげを受けておる人達があります。
 ところがですね、そういうのはひとっつも繁盛に繋がってない。信心はまどうやら続いておってもですね、本当の繁盛に繋がっていない。ね、だからそれを私は一番始めに申しますように、繁盛のようであって繁盛じゃない、ち。ね、本当の繁盛というのはやはり心が繁盛することです。心がにぎやかに大きくなることです。形のことじゃないです、ね。いわゆるいよいよ、神様が確信付られてくるというか。
 神様の、間違いなさを頂きながら、いうなら、ま、細々ではあってもですね、日々の神様のおかげで立ち行くおかげを頂いておるということです。そういう意味だと私は合楽で、たとえば十五年、二十年信心が続いておる方達の場合ですね、これは本当の、いわば繁盛の道を歩いておられるように思います。なんか合楽の信奉者の方達がです、もうほんとにそういうひとつの確信を持って信心を進めて行って頂きたい。
 これはですね例えば本当の信心もできんなり、一年二年信心しておる間に水膨れ的に膨れたのはですね、も必ずその繁盛しておるけれども、おごりがましいことになっております。ですからもう第一子供がその信心には付いてはよう来ません。それじゃもうほらそれぎりでしょうが。ね。教祖様はいろんなお取次ぎをなさる時に、本当のおかげが生まれてくる、本当のおかげになっておるような場合のお取次ぎは、もう必ずあの成り行きを大事にするというような意味のことを言っておられますですね。
 時節をたとえば待てと言うふうに言うておられますね。教典にもございますね。時節を待て。だからその待つ間が、私は繁盛だと思います。だからその時節を待った暁に生まれてくるのが、もうそれは、ほんとに夢にも思わなかったようなおかげだと思うんですよ。そう夢にも思わなかったようなおかげを頂いた時にはですね、そのおかげをですね、いわゆるその、その長年いわば続けてきた。
 その踏み広げて来た、言うなら辛抱しぬいて来たその信心がありますからね、おごりがましいことされん、わけなんです。ですから、私はおかげを頂くんだと思うですね。だから本当言うと、あの甘木の平田さんが言っておられるようにですね、信心させて頂くならね、十年間なら十年間、たとえば一生懸命信心こさして頂くと、ね、たとえば、信心しよるけん、米が一反にふつう十俵取れよったつが、十一俵取れるというようなことは絶対、ま、絶対ないち。
 本当は反対に今まで十俵取れよったつなら、八俵か九俵になるはずだとこう言われるわけなんです。信心の時間とか、またはお金を使ったりするからですね、お金が減るのが本当だと。そうですよね。そういうたとえば十年なら十年、二十年なら二十年の信心を続けて行っておるうちにです、ね、そういう中にあって神様の間違いなさが分ってくる。そしてなら十年経って見よ、二十年経って見よ。
 そこにはね、夢にも思わなかったようなおかげというのがあるんだと。一年に一辺づつ、二度づつ降ろす、でけたぐらいなこっちゃないおかげがですね、あると。そこにですね、私はあの本当のお道の信心の踏み広げていくということは、ただ、私はここんところをですね、ま、段々ちびちび少しづつ貯めて行けと言ったようなふうに感じておったんですけども、決してそうじゃないです。
 また、その八十三節に、一年に分限者になるような心になるなと。先は長いぞと、一文、二文と貯めたのは、みてることがないと言ったようなふうにおっしゃっておられますけれども、これはね、普通一般の話でありましてね、それは普通一般の、まあ、常識ていうか、ね、金光様の御信心は、これはあの一文、二文、こりゃお金を貯めて行くと言ったようなものじゃないと。
 一文、二文的にです、積み上げていく、信心のことだと私は思うです。そしてそこにはです、ほんとに、みはら、なんと申しますかね、ま、超おかげと言うでも申しましょうかね。普通では夢にも思わなかったような、おかげと言うおかげが、時節を待って信心を進めていくうちに、おかげが受けられる。なら、その十年なら十年、二十年なら二十年の間にです、もうそれこそ、もう日々こうやって、ま、細々ながらです。
 神様の間違いなさ、ないお働きの中に、おかげを受けておることの、有り難さて言うものが、しみじみ身に沁み込んで行く。ですから二十年なら二十年後、十年なら十年後に出けた時にもうおごりがましいことをすなと仰る、そのおごりがましいことをしょうと思うてもできんのです。たとえば私どもが、やっぱりなら贅沢しょうと思やぁでけます、おかげ頂いて段々。けどもですね。
 やはり、昨日もある方に話したんですけれども、昨日、私の頂いておった小さい茶碗が割れたんですよ。ほいでお茶碗はいくつも頂いとるから、ならこれを使いましょうと言うてきた。どんぶりのように大きい茶碗なんですよ。だから神様がこりゃ、もう沢山食べてよかちいいよんなさる印じゃろうて私は言うて皆笑わしたんですけれども、ね。というて私は決して沢山食べようと思いません。
 だからそこん中に少し、しかも、こりゃお粥さんを食べるとに食べ良かろうごたある茶碗ね、というたことでようにですね、やはりやっぱり麦の入ったお粥さんを、いまでもやっぱ頂いておるということで、お客さんがない限り。とても勿体のうして。ね、そしてですね、その麦のお粥さんがほんとに、むしろあの百味の御食的なおかげ、お食事させて頂くよりも有り難いという事実がです、身に付いてしまってるんです。
 長年の間に。おごりがましいことはとてもできません、ね。それでいてなら、いうならば、夢にも思わなかったようなおかげが、合楽に展開しておるようにですね。だから信心のですね、細々ながら、信心の間違い、神様の間違いなさが、一歩一歩進められて、一歩一歩頂いていって、そこにです、もうそれこそ、きれいにその信心の道がですね、もうこれから先でも、どうしたことじゃろうかと思うような、草を生やさんでですね、十年二十年続けていけれるという信心、これが尊いと思うです。
 神様の働きに間違いはなか、これはまだ信心が足りぬからだと、神様の働きには間違いがない、しかもそれが家族中のものがそれを言うて暮らしていけれる信心なんです。もうこれなら絶対。ね、そこからですね、たとえば昨日、または夕べの月次祭の中にも頂きますようにですね、いわゆる和賀心に掛ける熱情と言ったようなものが、段々たぎってくるおかげを頂いてです、ね。
 そしてここに時節を待ていとこう仰る、時節をそうして待たせて頂いておるところにです、もうこれは必ず到来するそのおかげがあるわけです。時にはそれこそ、夢にも思わなかったようなおかげであり、しかもそのおかげはですね、もう崩れる心配のないほどしのおかげなのです。私は神様そういうおかげを下さったとき、神様が安心して下さるだろう、喜んで下さるだろうと思う。
 信心の何かも良く分らんどいてですよ、それこそほんとに、ちょっと水ぶくれのように繁盛したおかげをです、繁盛のおかげを頂いてです、そして出してはならんところに手を出したり、ね、信心のある者がどうしたことじゃろうかと言ったようなことでですよ、おかげをいわば汚していくと言うか、道を穢していくような私はおかげ、もうそれこそ、一辺におかげを頂いたけれどもうすぐから、いわゆる人間というのはおごりがましいが、心が出るのがまあ普通なんです。
 そしてそういうおかげを頂いた人に限ってですね、御恩な忘れませんと言う様な程度で信心が細々続いておるだけです。もうそれこそもう言うなら雑草いっぱい。私は今日はこの八十四節はそのようなふうに頂きました。同時にここでも成り行きを大事にせよと言うことを二十年間言い続けて参りましたが、教祖様も本当のおかげが頂かれておる場合にお取次ぎなさっておられるのに時節を待て、時節を待てということを言うておられます。その時節を待っておる間がです、ただ安寛として待つのじゃない。
 もう細い道だけれども、もうほんとにいつも原さんの話を頂くたんびんに思います。北野の秋山さんの話を頂くたんびんに思います。別にどうと言う事じゃないのだけれど、けどもよう日々がですね、これ程のおかげの中にやってこらして頂いたなぁと自分で、言わばおかげを頂いてきた十年、二十年のものを振り返ってみてそれを感じられる。だから今日はどうであっても、明日もまたおかげが受けられると言うわけ。
 昨日も原さん達が夫婦でここでお届けをされますのに、ね、ま色々とまあ金入りが今月は続きますち。あそこにまだ払わんならん、ご本部参拝も御座いますどうぞ万事よろしゅうお願い致しますま何時もこの調子なんです。それがね何とはなしに一つ一つおかげを頂いていく。なら昨日から昨日ん所から言うと、全然当てもなからなければ、本当にとてもご本部参拝なんか申し込んじゃおられん、と言う様な状態にあるんです。
 けれどもお願いをして、段々それがほんとにおかげを頂いて、いわば、二十年間という間それでおかげを頂いてきておられるから、もう日々が、神様のおかげだなと実感せずにはおられないというのである。しかもそれが夫婦で、だけではない。親子全部が、ほんとに神様のおかげの間違いなさが、間違いなかの、とこう言い話し合えるおかげを頂いてです、ね、そして時節を待って行くうちにです。
 信心の熱情ももちろん段々たぎってくるでしょうし、ね、神様の有り難さが家族中で分ってくるでしょうし、私はもうほんとに細々ながらです。もうこの道にはですね、もう草一本生やさせんと言ったようなものが感じられるです。ね、それこそどんな場合でも微動だでもしてござらん。どんな場合でも揺るぎもしてござらん。二十年間続いて来てる。信心しとってどうしてこんな事じゃろうかと、と言った様な事を全然感じんで済むような信心。それが私は時節を待っておかげを頂かしてもらう時です。ね、
 私は所謂おごりがましいと言った様な事は先ず出来ない。また只勿体ないだけの信心がそこにあると思うのです。私はいつも合楽ではおかげを頂いたものがないと。ね。まいうならば合楽の先生はです、おかげをやらん様にお取次ぎしござると、まほんなつ皮肉かなんか知らんけれど、そう言う様な事時々耳にするんです。けれどもですね、最近ではその事が素晴らしいと、いわば合楽以外の人が言うておるんです。
 合楽では大したおかげを、皆んなか頂かんのに、よう信心が続けられておると言う事なんです。それを取り次ぐ先生はやっぱ、ちっと偉かっちゃろう、ちゅうごつなって来た訳です。おかげを頂かせずに、二十年間信心が続けられておると言う事なんです。それは何故かと言うと、細々ながら道に草を生やさずにです、ね、所謂じっと時節を待っておる、信心の姿がです、ね、
 例えばならよその何十年経歴を持った、教会の信者さん方と一緒にお話をしたり、または他所から有名な方達がお話を、お話しに来てから、見たり聞いたりされるのがです、もう全然格が違う。ね、合楽の信者はそれだけ素晴らしいと、いうふうにみて頂けるほどしになっ、言うなら信心がそれだけ育っきたということ。おかげも頂かんのにどうして続きよるじゃろうか。
 それは日々の中にです、神様の細々とした道ではあるけれども、神様の間違いなさを言うなら十分実感させて頂いての日々が続けられていっておるからなんです。そして私は思うです。ようみなさん辛抱してきたねって。ね、けどもその辛抱もまたどこまで続くか分らん、実を言うたら。けれどもね、その歩いて来ておるその信心の道に草を生やさずに進められておると言うその信心が有り難いのである。
 私は今日はね、八十四節にはそういうようなものを感ずるのです。教祖様が、教えておられる時節を待ていということは、たとえば私が成り行きを大事にして行けと言うそれと同じように思われるのです。ですから、そこに行き詰まりということが全然ないということをです、信心させて頂いておれば行き詰まりが全然ないと言うことを体験させてもろうて、しかもそれが、家族中の者がです、間違いがないねということが分って、それこそ夢にも思わなかったようなおかげがね、展開して来る。
 そのおかげがです、ね、はらもうそれこそ夢にも思わんようなおかげを頂いたから、いうなら、奢りがましいことをしようと思うても、何十年間の信心の、神様の間違いなさを思うたら、有難くて、勿体なくてという気持ちが強うなっておるから、いわばおごりがましいことをせんで済む。そのうちにです、子供も孫も、もう神様は有難いなぁ、まんまんちゃんが有り難いと言うことになって来とる。
 私は合楽の場合、家族が全部勢を揃えて信心しておられるという方がほとんどであると言うことからおしてですね、そういうことにならされてきておると思うのです。ね、ですから、たとえばどういうおかげを頂いてもです、おれが働いたけんで、こげなおかげを頂いた、というものは家族の中にない。やはり神様のおかげと言わなければおられないと言うおかげの中にです、浸らしていただけれるおかげ。
 まあ合楽椛目を通して言うなら二十年ですから、成程大きな信者というか、それこそ大繁盛のおかげを頂いておるというものではなくて、合楽には窮屈な人ばっかりが集まっておるんだと。しかもその窮屈の中にです、また窮屈の中にしか味わえない、味わいと神様の間違いなさを、しみじみ感じ取らせて頂いて、それが言うなら家族中で、子供も孫もそれを感じ取らせて頂いたそこから、開けてくる所のおかげ。ですから、ね。
 次第に踏み広げて通ると言うことはですね、段々財産が、段々、段々伸びていくと言ったような意味のものでは決してないことを思います。信心が伸びていっておること、信心が大きくなっておるのである。ね、そうして時節をお互い待っておるのである。しかもそれをですね、心の中に確信してです、おかげが受けられると言うこと。なぜって現在通っておるところ、また過去を振り返ってみてです、ああいう窮屈の中にとても通れようはずはないところを通らせて頂いておる。
 例えなら原さんの例で言うならです、ね、別にこれと蓄えもあるわけでもないのにです、さあ息子が嫁ご呼ぶと言えば娘が嫁いるといえば、そん時そん時なりにです、そう大して可笑しい事もない様なおかげを頂きながら、それがでけて来ておるという事実をです、所謂踏んまえてのおかげでなからなければ駄目だと言う事だと思うんです。そういうおかげをです土台にしたもの。そこに私はおごりがましい事をせんで済む。それこそま合楽で言われる、ね、超特大と言う、超という言葉を使いますが、ね。
 夢にも思わなかった様なおかげが、その時節を待たせて頂く間に、お互いの信心が愈々育って行く。しかもあの当時は、只自分の事だけが一生懸命の願いであったのに、例えば二十年間経っている内に今年なんかの信心の、言うなら素晴らしさと言う事は、お互いの祈りの中に、どうぞ世のお役に立たせて下さいと言う様な祈りがでけてきた、と言う事なんですね、そこから考えるとこりゃもう愈々おかげは・・・・?そんな気が致します。そこでならたとえばです。
 愈々言うならば百の数字を持ってするならばです、段々90、95,96、97、98と言うふうに積み上げていく。言うなら99というここの一段、言わば99と言うたら、苦に苦が重なると言う様な時にです、ね、昨日から昨夜に掛けて頂いておる様にです。所謂和賀心の頂けれる、和賀心に対する所の熱情と言うものがね、もっともっと私は白熱化する信心。寝ても覚めてもその事が忘れられない信心。
 そういう意味でです、言わば合楽ももうぼちぼちですね、そういうおかげ時節が到来して来ておるように思います。ですからどうぞ一つ油断なくそのへんの所を、信心させて頂き分らして頂き、いまたとえ、たとえば億万長者にならせて頂いてもです、まずは奢りがましい事をする様な事はあるまい。先ずはおかげを落とす事はあるまいと、家族中の者がですね、語り合い確かめ合うてですね、そのおかげをひとつ頂いて頂かにゃならんと思うので御座います。
   どうぞ。